かくて乙女は沼に眠りぬ

ハッピー沼底ライフ 

読書感想文 恋愛中毒


ここ最近、なかなか本を読む時間がなかった。
いや、時間はあったけれど上手に使う気力がなかったというのが正しいかもしれない。
やりたいことはあるのに、漫然とスマホを眺めるだけの日々がずいぶん続いてしまった。

今日は久しぶりの三連休の初日で、朝の五時半から起きて部屋を片付けたり洗濯物をしたりレンジフードのカバーを変えたり、やろうと思いながら滞っていた家事を片付けた。
そして現在、まだ朝の十時だ。

時間というのは有効に使えばこんなにたくさんのことができるんだなと、当たり前のことを思った。

部屋も片付き、時間もたっぷりある。心に余裕が生まれたのか、久々に本を読もうと思い立った。
仕事の休憩時間などを利用してちまちまと読み進めていたのを、読み切ってしまいたい。
半分以上は読み進めていたので、1時間かそこらで読了した。



今回読んだのは、山本文緒の「恋愛中毒」という作品だ。
以下、裏表紙の作品紹介。


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どうか、どうか、私。
これから先の人生、他人を愛しすぎないように。他人を愛するぐらいなら、自分自身を愛するように。
水無月の堅く閉ざされた心に、強引に踏み込んできた小説家の創路。調子がよくて甘ったれ、依存たっぷりの創路を前に、水無月の内側からある感情が湧き上がってくるーー。
世界の一部にすぎないはずの恋が、私のすべてをしばりつけるのはどうして。

吉川英治文学新人賞受賞、恋愛小説の最高傑作!

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この作品紹介を読んでどう思うだろうか。

私はこれを見て、この作品を「恋愛小説だ」と思って読み始めた。過去の恋愛で傷ついた女性が、抗いようもない恋心に絡め取られていく、切なくも瑞々しい、そんな風な話なんだろうと。


実際のところ、たしかに恋愛小説だった。

あまりにも純粋で真摯な、恋という名の狂気の物語だと思う。


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この物語は、冒頭以外すべて、水無月というひとりの女性の自分語りだ。


冒頭。
とある編集プロダクションに勤める新人・井口は、元カノにしつこく付き纏われており、会社にまで押しかけられたことをきっかけに、社長と、いわゆる「事務のおばちゃん」である水無月と三人で話し合いを兼ねて飲みに行く。

社長が帰ったあと、水無月と二人になった井口は、無愛想で地味で、どこか恐ろしい雰囲気のある水無月の「結婚していたことがある」という言葉を皮切りに、彼女のかつての恋の話を聞くことになる。



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初めは、抗っても抜け出せない、恋というどうしようもない病をテーマにした物語だろうと思って読んでいた。
ダメ男につかまる女の情念と執念、とかそういったもの。

しかし、途中から違和感を抱き始めた。

読み進めるにつれて、少しずつ、水無月という女性の抱える底なし沼のような愛の狂気が滲み出てくるのだ。


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愛する人と離婚し、バイト暮らしの傍ら好きな翻訳の仕事を細々と続けて、ひとり静かに生きている32歳の女性、水無月

しかし、バイト先の弁当屋でたまたま出会ったタレントであり作家の創路に気に入られ、愛人兼秘書として彼と関わっていくことになる。

若く美しい後妻がいながら、手近な女に手を出しまくってあちこちに愛人がいる創路は、強引で傲慢で我儘で、気持ち良いくらいずけずけとモノを言う、あらゆる意味で強烈なオッサンだ。
しかし、時折スパッと核心を突くことを言ったり、沈みがちな水無月にあっけらかんと接して空気を変えてくれたりと、不思議な魅力がある。
読み進めながら、この男に惹かれてしまう女たちの気持ちが少し理解できてしまうのが少々悔しかった。


水無月は、秘書として愛人として、良いように使われている自覚を持ちながらも彼に依存していく。
他の愛人たちが奔放な創路に溺れて傷ついてしまわないよう自衛する中、水無月だけが、ドロリとした感情に徐々に飲み込まれていく。


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先述した通り、この小説は水無月の自分語りだ。

こう思った、こう感じた、だからこうした、と彼女の目線から淡々と語られる内容は、理性的で筋が通っているように感じる。
もちろん人間なので、物事の捉え方や分岐点での選択に狡さや弱さも垣間見えるが、その中で水無月はいつも、大人として、女として、冷静に穏やかにあろうとしているように見えた。

元旦那への気持ちやささやかな思い出話がことあるごとに登場するので、愛した人(未だ愛している人)との離婚という傷ついた経験が、彼女の恋愛感情にブレーキをかけているんだろうと思いながら読んでいた。
なんとも苦しい大人の恋ではないか、と。





しかし、こちらが彼女の冷静さに安心して読んでいると、彼女は時々急に、「え?」と思うような行動を取る。

挑発してきた古株の愛人に痛烈に反撃したり、不満や嫌味を露骨に行動で示したり、優しく寄り添うような発言をしながら他人を思い通りに動かしたり。

お堅いとも言えるほど真面目で穏やかな人物ではあるけれど、どこか屈折している様子が端々に見えるのだ。



私が最初に彼女の異質さを感じたのは、「元旦那に日常的に悪戯電話をかけている」ということが判明した時だ。その話は中盤以降にさらっと出てくる。
離婚してから変わっていない番号に、ワンコールだけかけて切る。犯人をわかっているであろう元旦那がかけ直してくれることを期待して。
「いつもの番号を押す」という表現があることからも、その行為がかなり頻繁であることが窺える。
いい加減にしろという罵倒でもいいから声が聞きたい、と彼女は思う。


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終盤に向かうにつれ、水無月の幼少期の話や、元旦那と結婚に至るまでの話が語られる。

そして、創路の妻との交流(この妻がまたヤバい)。先妻との間に生まれていた娘の登場。創路との関係の変化。

少しずつ、水無月は追い詰められていく。
愚かなほど純粋で、深すぎるがゆえに手に負えない執着とも呼べる愛情が、彼女の狂気の蓋を開いてしまう。


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とんでもなくシンプルな言葉になるが、この作品の著者・山本文緒は、小説を書くのが上手すぎる。人物の造形も心理描写も話の構成も、恐ろしく巧みだ。

読了後、もう二度と読みたくないほどずっしり心にのしかかるのに、散りばめられていた細かな仕掛けの在処を確認したくてもう一度読んでしまう。

山本文緒の世界に引きずり込まれる。




「群青の夜の羽毛布」の感想文でも書いたが、山本文緒の描く女性たちは皆、ドロリと澱んだものを抱えながらもどこか瑞々しく鮮烈だ。

水無月は「実は重度のストーカー」で、最終的に「実刑判決を受ける」(ネタバレ)のだが、彼女の根底にあるのは愚直なまでにまっすぐな愛情で、それは究極に透明であるとも感じられる。
ただそれは人の世においては「まっすぐすぎるという歪み」であるというのが、えもいわれぬ哀しみだ。


彼女の愛し方は恐ろしい。捨て身だからだ。
全く自衛しない体当たりの愛情は彼女も傷つけるし、受ける側も怖い。

それでも愛することをやめられない。
まさに恋愛中毒。

そしてそんな恋愛中毒者は、水無月だけではない。
創路や、他の登場人物たちもそうだ。
誰もが苦しいと叫びながら、愛することをやめられない。

 

読み進めながら、水無月の中の狂気は端々に表れるが、彼女の思考回路が飛び抜けて理解不能であった瞬間はついぞなかった。


程度に差こそあれ、人類は皆、恋愛中毒なのではないか。
私はこの作品に触れ、そんなふうに思った。













山本文緒の小説は恐ろしい。

初めはすべてが何食わぬ顔をしているのに、少しずつ不穏な空気が足元を浸し始め、「あっ」と思う頃には後に戻れない場所に連れ去られている。

胸の奥からスッと冷える感覚。
崖淵のような恐怖。水底のような息苦しさ。
読了後、気が付けば眼前に広がるその景色にゾッとする。



しかし、恐怖で握った拳の中にたったひとかけら、宝石が残っているのだ。
それは愚かで懸命な者への愛しさかもしれない。